平成29年1月号
昨年9月に逝去した道場親信の『下丸子文化集団とその時代』は、母の施設がある多摩川線を、より近しい気分にさせてくれる。
私が開業した当時は、仕事先に大田区や品川区あたりの工場がまだ随分残っていて、黙々と働く旋盤工から、いろいろな事を教えられた。
工場経営者は、地上げにあい、代替地で賃貸アパートを建てたり、得意先が海外に移転して廃業したりと、今、私の仕事先に製造業がひとつもなくなった。

大田区・品川区・港区は、第一次世界大戦後に工業化が進み、沿岸部には工場と労働者の住宅が発展したが、米軍爆撃の被害は軍需工場に集中した。
戦後、労働組合の組織化に並行して、文学・演劇・音楽などの職場サークル活動の盛り上がりは、レッドパージにより大打撃をうけ、活動拠点を職場から地域に、大田区の工場地帯は米占領下の軍事的緊張が判りやすく、「朝鮮特需」は大田区工業界に複雑な刺激を持たらせた。
1951年春、下丸子に安部公房らは、労働者と新たな文学運動を作りたいと意欲をもち、文学やデッサン、版画の彫り方を教え『詩集下丸子』が刊行された。サークル詩運動は、生活者が「書く」という行為を通じて、自分や社会を見つめ、主体形成していった。

東大赤門の斜向かいに、『詩学』を発行する古い木造の事務所があった。当時の編集長だった嵯峨さんが、人間が老いていくことを最初に教えてくれた。
児玉 智子
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