老学生のつぶやき

令和5年1月号
寒風に大波乗り越え「第二海堡」に上陸する!
幕末から明治にかけて日本は近代文明に追いつこうと必死で、また外国列強が日本の植民地化を虎視眈々と狙っていることに焦り海堡を建設し、第二海堡着工明治22 年の2 年後に清国の巨艦6 隻が横浜に姿を現した。したがって砲台は外国軍艦の侵入を防ぐため、江戸湾入口に向かっている。
しかし日本は開国に際し、ペリー艦隊から一発の発砲や交戦もなく、賠償金や領土割譲がなかったのは、英国より先に太平洋横断する蒸気船航路開拓を望み、アメリカ人漂流民に対する日本人の手厚い扱いがあり、日米和親条約が仲良く結ばれ、戦争は回避した。この条項にしたがって1858 年にハリスと日米修好通商条約を締結、ここに遊廓の設置に関する条項は載っていないが、幕府は慌てて遊女を集め、ハリスから遊廓の開設を催促された。
外国人を遊廓でもてなすこと、企業が銀座のクラブに招待し成約に繋がること、そこには「遊女」や「キャスト」の心遣いの利きめがある。
外国人を接待する岩亀楼の遊女は「ちょんきな踊り」で場を和ませていた。
児玉 智子
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