日本各地の人力車夫を数年かけ撮り続けているうちに、インド・コルカタ(カルカッタ)の裸足で走る車夫に無性に会いたくなった。
人力車は、明治元年に横浜居留地の宣教師が、病弱な妻の医者通いのために、大八車に椅子を固定したものを考案し、人夫に曳かせているのを見て、東京ではじめて製造され全国に広まった。それを日本にいた外交官が愛用し、母国に持ち帰って評判をよんだ。明治四年にイギリス、アメリカ、フランスに輸出され、植民地を経由して東南アジアから中国大陸へ伝播したそうだ。明治一四年の報知新聞が伝えるところによれば、西南の役に敗れ自刃したはずの西郷隆盛がインドに脱出、コルカタで人力車に乗っていたとの伝説があるらしい。
コルカタの交通手段の主役が、駕籠から力車に交代したのは一九○○年になってからで、水浸しの道路や洪水のなか、中国人のリキシャワラ(力車の車夫)が営業していた。しかし、二○年後には完全にインド人車夫が活躍するようになった。
真夜中に飛行機がコルカタのダム・ダム空港に到着し、迎えの車に乗り込むと運転手は物凄いスピードで闇を突っ走る。リンゼイストリート近くの裏通りにはリキシャの下で寝ている車夫がたくさんいる。ヘッドライトがそれを照らし出すと、私はコルカタに来た実感を掴む。
コルカタのリキシャワラは働き者だ。まだ薄暗い早朝、朗々と地を伝わってくるコーランのなか、日本の屋台の風鈴屋さんを思い出す鈴の音、リキシャワラは市場で買い出しをする男たちを相手に仕事を始めているのだ。
ニューマーケットの周辺は明け方から新鮮な花や食料品の市場が立ち並ぶ。いちばん楽しいのがフリースクールストリートをいっぱいにする鶏売りで、リキシャの舵棒に逆さに吊るされた鶏が洗濯鋏のように揺れ動く。
朝もやで霞んだフーグリ河は、ヒンドゥー教徒にとっての聖なるガンジス河の支流だ。ハウラー橋の高架下、花市場をのぞいていると「あなたはヒンドゥー教徒か?」と声をかけられる。ヒンドゥー教徒は、自分の望むものを得るために神々へのつとめを果たし、願いがかなえられると、あらためて供物を献上する。西ベンガル州は大地母神信仰の中心地、コルカタのカーリガートはカーリー女神に供物や供花を贈る信者でにぎわう。
リキシャワラを追いかけていると、彼らが並大抵の体力でないことが判る。酷暑のシーズンは一時間歩くだけで日射病になりそうだ。
そんな時、懐かしい味のバタークリームがのったケーキとコーヒーを飲みにパークストリートのカフェまで歩く。リキシャの運賃の数倍もする値段のケーキは、コルカタには似合わない。店内はノートパソコンで打ち合せをするビジネスマンやおしゃれなカップルでにぎわい、ガラス扉のむこうから路上生活をする子どもたちがのぞいている。
チョウロンギーロードは、手足がない人が賽銭箱の横に寝転び、野外理髪店で髭剃りをする男達、靴磨きの少年が並び、そこにデモ隊が叫びながら通りかかる。
お互いの生活を尊重しながら楽しく生きる、これがコルカタのパワーに繋がる。
一九三九年、当時の政府により、人力車は免許が必要となり六○○○台に限定された。現在、新規免許の交付はしないといわれている。
免許がない車は没収されるらしく、山積みの廃棄場を見ることがある。しかし不思議なことに、解体修理して賃貸する商売もある。免許の数倍も走る人力車の車夫たちは、毎日の売上からオーナーに賃借料を支払い、家族に仕送りしながら仕事を続ける。
コルカタにリキシャがなくなると言われているが、モンスーンの豪雨のときには他の交通手段はない。東南アジアでは力車のことをシクロとかベチャというが、インドではリキシャとよぶ。いつまでもリキシャワラを追っていきたい。
児玉 智子